

此処に掲げてある大日坊の景は明治八年の火災後再建された堂塔であり、焼失以前の堂塔は此の外六角堂、阿弥陀堂、出雲童子堂、五仏堂等、土蔵も外に一棟あり、上土蔵下土蔵と申し上げた、本堂も焼失前のものは僧坊を併せ建てられ、行間四十二間(約七十七米)に梁間十二間(約二十二米)有り、広大な坪数でありました。
焼失を免れた仁王門(中門)は鎌倉時代作りと伝わっておりますが、学者の見方では建物の彫刻や色彩が、あまり派手でない点から考案して、鎌倉以前だと見るむきもあります。鐘楼堂も焼け残りましたが、大東亜戦争中何かの理由で解体されました。
これも仁王門以上古く一千年とも言われ、天井に描かれた、天女の姿も解体の際破壊されたが今にして思えば残念至極に考えられます。即仏堂も焼け残りであります。
当山には此の外二体の即身仏があったが明治八年の大火災で本堂とともに焼失され、真如海上人だけ、天明三年、入定の際弟子達に三年後掘り起こしたら、別に堂を建てて祀ってくれる様申し遺された。
今考えてみても自分の体は何百年経っても朽ちないと言う修行に対する自信が満々あったことを、裏づけるもので、其のため此の地に祀り火難を免れたのであります。客殿も明治の火災後再建されたが、大正時代解体売却され、土蔵も現在ありません。
経輪堂も大正時代の大暴風雨被害で破損し解体せり、山門も地辷り被害で傾斜せるため山形県最上郡真室川正源寺に売却せり、奥の院(大日堂)は地辷被害で昭和十一年倒壊し、その後再建いたしません。